色んな場面で、自問自答しながら、あれこれ考えて生きてきました。
すぐに答えがでるものがあれば・・・なかなか、正解が出てこないことも。
中学時代から、明確な答えが出る理数系科目が、苦手な私。
かと言って、答えが曖昧な問いも、なんだかなぁ・・・。ホンマに難しい。
ホスピスで患者さん・家族さんの傾聴ボランティアをしていた時のことです。
ある女性が、「夫が癌になってから、色々な場面で判断を迫られることがありました。夫と相談できたこともありましたが、病状が進むと、ひとりで決断を迫られることもありました。治療方法、そして積極的な治療から、苦痛を取り除く緩和ケアにギアチェンジするとき・・・その時々、私が決断をしたことが、正解だったかどうか。色々考えてしまって・・・」というような、苦しい胸の内を話して下さいました。
私にも、同じような経験がありました。
夫は癌と診断を受けてから亡くなるまで、本当に短い期間だったのですが、いくつかの決断を迫られることがありました。
一番最初は、告知に関して。
今から23年も前です。患者に告知することが一般的になってきた今とは違い、本人に病名やだいたいの余命を言うべきかどうか。
結局、担当医や夫の兄弟と話し合い、医療的な知識がある夫には、隠しきれないと、告知することになりました。
決断を迫られるとき、患者もとても苦しく辛いですが、家族も同じように辛く苦しいのです。
一人で悩み、悩み、悩み続けて結論を出す・・・患者家族にとって、本当に辛い経験です。
辛い胸の内を私に話してくださった、その女性に向けて、咄嗟に口から出た私の答え・・・
「その時々、本当に大変悩まれたと思うけれど。。。私は、その時その時、○○さんが真剣にご主人のことを考え、真剣に出された結論。どんな答えであっても、そこには、正解しかないと思うんです・・・」
咄嗟に出た私の言葉。
その私の言葉がふさわしかったかどうか、今でもわかりません。
世の中には、正解のない答えってあるんですね。
ひょっとして人生の決断は、正解のない問いの繰り返しかも。
自分が下した結論で、進む方向が決まってくる。ゴールまではその繰り返し。
それなら、その時々に真剣に悩み、真剣に考える。その行為自体が正解なのかも知れません。
自分に向けて、正解のない問いを、これからもすることになるんだろうな。
その時、その時、真剣に考える。
真剣に考えること・・・それこそが答えなのかも・・・
そんな風に思うのですが。。。
ややこしい文章で、m(__)m
正解のない答えを問われたことを、ふと、思い出して、つらつらと書いてみました。
今日は、29年前に、阪神淡路大震災があった日です。
29年前を思いながら、神戸と能登に向けて祈ります。
1日も早く、能登半島に、日常がもどりますように。
今年は、いつもの年より、春が待ち遠しいです。
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