生きていること自体が、悲しみを伴うことを実感するときがあります。
人間である以上、人生で、そんな経験をするのは避けられないことなのかも。
「祈る」と言うこと
最近、運命の無情を思い知らされたできごとがありました。
私ではなく、私の友人に起きた出来事。
通常では、出会わない壮絶な体験をした友が、数十年経って、また同じような体験をする。
個人的なことになるので詳細は、書けないけれど、人間の運命について考えさせられた出来事でした。
その友は、たくさんのことを一度目の経験から学んだと語っていました。
彼女の言葉から、生きる悲しみと強さを感じました。
壮絶な体験をすると、日常では考えないこと、解決策のないこと、答えのないこと、哲学的なことを自問自答します。
私の場合は、そうでした。
そうしなければ、生きられなかったのかも。
解決策のない答えを求めたのは、自分のこころ、若しくは、大いなるものの存在でした。
今回、友人の知らせを聞いた時、彼女を思い、私には、祈ることしかできませんでした。
祈るということ、それしかできないけれど、「祈る」という行為ができる。
改めて、「祈り」の大切さを感じました。
助けられているのは、祈っている自分なのかも・・・知れないけれど・・・
私なら耐えられない・・・という励まし
この年齢になると、悲しい別れを経験することが増えます。
また、別の知人の話です。
仲良し夫婦だったMさんは、最愛の夫を病気で亡くしました。
そのとき、Mさんと仲の良かった友が思わず発した言葉、
「あなたは、すごい。私なら耐えられない・・・」
この言葉で、仲の良かった二人の関係が壊れてしまったとのこと。
Mさんの友達は、悪気なく、むしろ励ますつもりで発したのだと思いますが、
それがMさんのこころを、深く傷つけたようです。
自分だって耐えられないけれど、ギリギリのところで耐えなければいけない状況なのに・・・
どうしろと言うの?
Mさんは、そう思ったのかも知れません。
愛する人を亡くした時、私も色々な励まし(ているつもり)の言葉で、こころに小さな傷がついたことがあります。
そのときは、少し傷ついたけれど、
言葉がけしてくれた人は、たぶん、励ますつもり、言葉に困ったご自身のために発した言葉だと思い、小さな傷を自分で治療しました。
励ましなんて、要らない。
言葉は、難しい・・・。
わかって欲しいけれど、わかってたまるか!
難しい言葉がけのひとつ。
「わかる」という言葉。
壮絶な体験をしたとき、誰かに聴いてもらいたい衝動にかられ、体験したことを話すと言うことがあります。
私もそうでした。
その時に、「わかる、わかる!」と言われると、引いてしまう自分がいました。
「え? なんで、そんなに簡単にわかるの? 私と同じ体験してないやん!」
グリーフケアの勉強をしているとき、学習プログラムに、話し手、聴き手、オブザーバーの3人でチームを組み、傾聴する演習がありました。
聴き手役になったとき、思わず、「わかるわ!」とつぶやいた私。
講師からピシャリ!と言われました。
「本当にわかっているのですか? 本当にわかることができるのですか?」
苦い苦い経験でした。
わかろうと心を寄せることは、大切だけれど、どこまでわかっているのか・・・簡単にはわかるものではない。
言葉は、やっぱり難しい。
そして、悲惨な経験をした者は、思うのです。
「わかって欲しいけれど、そんなに簡単にわかってたまるかっ!そんな簡単なことでは、ないねん!」
まぁ、利己的っちゃ利己的だけれど・・・
藁にもすがりたい気持ち。
でも、藁に(←m(__)m) 簡単に「わかるわ」って言われてもなぁ・・・
人のこころは複雑です・・・。
今日は、壮絶な体験をしたときの人間の複雑なこころについて、呟きました。
『人のこころは、どこまでわかるか』河合隼雄さんの本を、再読してみようかな・・・
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