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新聞に、2022年の自死者の数字が掲載されていました。 21,584名。
厚労省が毎年、数字として発表しています。
そして、この数字の陰に、何倍もの苦悩している遺族が、存在します。
自死者数は、社会動向としては必要な数字なのかも知れません。
ですが、自死遺族にとっては、数の問題ではなく、一人一人が、大切な、愛する人なのです。
今日は、自死遺族の苦悩について、つぶやいてみます。
統計数字にかくれた、一人一人の人生
以前、ボランティアをしていた遺族会に、新聞記者が取材に来られたことがあります。
遺族会は、基本的には遺族のみの参加となっています。
取材であっても中に入って頂くのは、参加者の同意を得てから。
全員の了承を得て、新聞記者が中に入られました。
当時の発表された自死者数について、どう思うかとの質問がありました。
私は、「数字が大きくても小さくても私達にはあまり、関係ないと思います。私達にとっては、一人一人が大事なのですから・・・」みたいなことを言いました。
以前にもブログにアップしましたが、自死は、「語れない死」または、「語りにくい死」です。
自死遺族会主催の大きなイベントを開催したことがあります。この集まりは、遺族以外も参加して頂けます。
私も自死遺族の思いなどを知ってもらえる機会と捉え、職場の仲間に案内をしたことがありました。
毎日、隣の席で一緒に仕事をしてきた後輩。
後で、「実は、私の兄弟が・・・・自死をしたのです。」と私にこっそりと教えてくれました。
それまで、一言も兄弟の死について語られたことは、ありませんでした。
兄弟がいらっしゃったことも知りませんでした。
そう、自死は、「語りにくい死」なのです。
・・・ムムム・・・絶句した発言
遺族会では、数年に1度の大きなイベントと並行して、毎年、小さなイベントも開催していました。
先ほど同様、このイベントにも、遺族以外の方も参加できますが、思わず絶句する出来事がありました。
「学校の部活指導、いじめ等が原因の自死」についてがテーマでした。
実際に、当事者である遺族、お父様の話を聴かせて頂くイベントだったのですが、
参加された一般の方、二人の年配女性(60~70代くらいの方)が、
「そんなことくらいで、死んでしまうなんて、弱いのよ。今の若者は、みんなひ弱になってしまったねぇ。」とおっしゃったのです。
この言葉に、遺族はみんな、絶句・・・・
論争をする場ではなかったので、主催者が少しでも、理解をしてもらおうと自死について話されましたが、主催者の思いが、女性二人に届いたようには、思えませんでした。
この言葉に、大切な方を自死で亡くされた遺族の皆さんは、大変、驚かれたと思います。
でも、この女性たちが存在するのが、「世間」なんだと思ったり。。。。
こころの病に向ける眼差し
先ほどの女性が世間代表だとは、思いたくないのですが、まだまだ、そのような考え方が、存在するのも事実です。
うつ病が自死と深く関係があることは既に知られていますが、自死の多くは、心を病んでしまった結果なのではないでしょうか。
身体的な病気がもたらす死と比べ、心の病が原因の死に向ける社会の眼差しは、まだまだ、厳しいように思います。
古くからのキリスト教の影響で、海外では、自死は罪とされてきた歴史があります。
そして、日本でも、自らの死を選ぶことは、生きることから逃げた弱いもの、卑怯者とするところがあるようです。
「世間体が悪い」「恥ずかしい」・・・・日本人は、比較的、世間や体裁を気にする傾向にあり、周りに同調するのが特徴だとも聞きます。
そして、私も「自分自身の中に、「世間」が存在しないか、問うてみないと」とも思います。
亡くなった愛する人について語ることは、その人が存在していた証にもなると思います。
そして、亡くなった愛する人を語らないことは、その人の存在を消してしまう罪悪感が、遺族に生まれてしまわないかなぁ。と思います。
「非難されたり、話すことを止められたり、必要以上に励まされたり、避けられたり・・・
世間はいろいろな受け止め方をします」ーある遺族の言葉
「自ら逝ったあなた、遺された私」家族の自死と向き合う・・・本の帯より
自死は、「生きたい!」と心のどこかで叫んでいるような気がするのです。
以前にも書きましたが、「語れない死」が「語れる死」になる世間になって欲しいな💓と願っています。
今日は、今朝見た朝刊の記事から、自死について思ったことをつぶやきました。
最後までお付き合い下さって、有難うございました。では、また。
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