シニアになってから、自分の人生を振り返ることが多くなりました。
死別経験、仕事人生など、ブログにアップしましたが、
経済状況含む環境面でも結構、アップダウンの激しい人生でした。
今日は、私の乗った人生のジェットコースターについてつぶやいてみます。
あまり、興味がないかも知れません。。。。が。。。。
誕生~中学3年生まで
父方の祖父が、戦後、事業を起こし、成功しました。
祖父は、事業家としては、なかなかのやり手だったみたいです。
私が幼稚園のころ(もの心ついた頃)、祖父の家で遊んでいた記憶があります。
お屋敷町に3000坪の土地だったと聞いています(ホンマかいな!?)
洋館の建物だったこと、広い庭にライオンの口から流れるお水、
応接間には豹?のはく製が飾られていたこと。(趣味悪いんちゃう?)
家の中に電話BOXがあったことなど、うっすら記憶しています。
長男だった父が、その後の事業を引き継ぎ、
父は、その後、大阪梅田の一等地にビルを建てました。私が小学2年の頃。
幼少時は、こんな風に、恵まれた環境で育ちました。
まぁ、ジェットコースターで表現すると、最初のゆっくりと登っていく感じですね。
お手伝いさんがいて、ピアノも絵画も家庭教師も、先生が家に来てくれて教えてくれました。
(その中のどれひとつ、花を咲かせることはありませんでした。。。。今のところ 笑)
小学校は、高級住宅街で有名な芦屋の公立学校(この小学校、私は大好きでした)
芦屋の高台に家があったので、大阪湾まで一望、夜景もそれなりに綺麗でした。
当時は、芦屋浜で泳げていました。(私が小学2年まで)
川沿いの教会や、桜並木・・・私の大好きな原風景となっています。
その後、中高はカトリックの、俗に言うお嬢様学校に通学していました。
このお金持ち環境は、中学3年生まで続きました。
ところが。。。。その後。。。。どんどん、雲行きが怪しくなるのです(涙;)
暗黒の高校時代。。。夜逃げ?か一家離散か?
上り調子のジェットコースター、いつまでも登ることはないんですね。
アップ⤴ & ダウン⤵
高校に入ったころ、第一次倒産期? 芦屋の家から父方の祖母の家に引っ越すことに。
表向きは、祖母との同居ということでした。芦屋の家は、手放すことに。
祖母の家の2階部分を私達家族4人が使用。
父の事業が傾き出したんだと思います。たぶん、金銭的に苦しくなったんだろうなぁ。
やがて、家族だけで住む家(新築の建売住宅・・・ここは無理して買ったのかな?)
高校時代は、この家で過ごしました。
そして、高校3年のときに、突然の母との死別。。。。(暗黒時代の幕開けです;)
母との死別、大学受験第一希望の不合格、そして・・・・
大学1年の夏休み。兄から告げられた言葉、
「明日から、この家に住めなくなる。アーモンドは叔母さんの家で住んで。」
父は私に言うことができなくて、兄にその大役を任せたみたいです。
まぁ、二度目の夜逃げのようなもんかなぁ。第二期倒産期・・・。
兄は、木造の古いアパートで暮らすとのこと。兄もその時は、大学生でした。
母は天国、兄はアパート暮らし、私は叔母の家。父は?父はいったいどこで暮らしていたのでしょう?
まさに一家離散とは、このことなのでしょう。
やがて、叔母の家にも居辛くなった私は、兄の住むアパートで二人兄妹生活がスタートしました。
叔母はとても優しい人でしたが、私と同じ子供ありの未亡人。
経済的にも苦しかったのだと思います。
それでも、私に優しく接してくれました。
ある日、ここから出て行って欲しいと叔母から言われ、私はその家を出ました。
その夜のこと、今でも覚えています。
(その後も、叔母と私の仲良し関係は続きます。叔母は50代前半で亡くなりましたが。)
お嬢様育ち(自分で言うの、なんだかなぁ~ スミマセン・・・)のため、
大学を辞めて自分で働くと言う選択肢がなかったのが、今から思えば、甘ちゃんだったと。
しかも、クラブ活動までさせてもらって・・・
父は今から10年まえに他界しているのですが、
ホントに私達兄弟のためにお金を工面してくれていたのだと今更ながら、感謝しています。
まぁ、兄は駅の清掃なんかでアルバイト、生活費を稼いでいましたが。
兄と私が暮らしたアパートは、6帖と3帖、風呂なし。
私の部屋は3帖でした。でも、十分、暮らせていました。
雨露をしのぐ家があることは、有難い事です。
そして、気兼ねのいらない生活、有難い事です。
あ・・・、思えば、かぐや姫の貧乏ソングそのものの生活だったなぁ。
お嬢様(何度も言ってスミマセン。。。)だった私、びんぼう暮らしとも、すぐに仲良くなりました(笑)
そうそう、アパートの下に、借金取り?債権者が訪れ、声を殺して生活してました。
そう言えば、私、成人式、どこからもお誘いなかったのです。
その頃の私の住民票、どうなっていたのかしら?
なので、成人式に出席していません。別にどうってことはなかったけれど。
この頃が、私の環境面ジェットコースター急降下、一番底だったでしょうか。
母が居なくなった寂しさ、家がなくなった喪失感。
ボロボロだったけど、若さと性格(ノー天気?)で乗り越えて来られたと思います。
♬15・16・17と~私の人生暗かった♬(宇多田ヒカル母のヒットソング・・・)
私の人生もほぼほぼ、同時期(17歳~20歳)、暗かったぁ♬
でも、友達や周りの人たちには恵まれていて、ここまでやってこられた感じです。
金はないけど、素敵な人がいる♪ それって幸せ。
自分でガンガン稼ぎだす!
大学4年からはアルバイト・アルバイト・アルバイト
全単位をほぼほぼ、取得していた私は、4年生時代は稼ぎまくりました。
スポーツショップ店販売員、ブティック販売員、ケーキ屋販売。。。。
時には、砂糖工場でのアルバイト、
そして、コンパニオン(チャイナドレスを着せられて、パーティに参加?)
時給が高いと思ったら、コンパニオンのバイトでした。それもなかなか、上手にこなせたよ。
アナウンサーの勉強もしたので、各種コンサートホールでの場内アナウンス(ライブ、ただで見放題!)
FM局でのアルバイト。。。。。楽しく稼がせてもらいました。
やがて、就職口が決まり、増えていく貯金通帳を見ては、ニヤリとする生活に突入していったのです。
結婚後、自営の生活、やや苦しかった。でも愛する人がいた。
父の事業の失敗に翻弄された私、結婚相手は安定した会社員を!
そんな希望もむなしく、結婚相手に選んだのは、若き事業主のダンナ。
なんで?会社員を選ばなかったのかって?
ムフフ・・・それは、愛してしまったからなのです(☚きもくてすみません)
料理家の栗原はるみさんが、以前、語っていました。
「夫と出会っていなかったら、ずっと私は独身だっただろう」と。
でへっ!私もなんですぅ♬
だから、苦しい自営業の夫を選び、そして、予想裏切らず、自営業は上手くいかなかった。
あまりに長くなりすぎるので、(さすがに、シニアの人生語るのは長くなるなぁ。)
結婚生活のプチ環境ジェットコースターは割愛させて頂きます。
独身時代のジェットコースターに比べれば、なぁんてこたぁない話になります。
夫との死別後、細腕( 実は太い!笑 )で二人の子供を育て上げた私。
貧乏だったときのアルバイト経験、稼ぐ楽しさを知ってしまったから、
乗り越えられたのかも。。。。
さてさて、老後(んっ!老後っていま?)、どんなアップ⤴&ダウン⤵ が待っているのかしら?
ある程度は乗り越えられる自信は、あるんだけど。
だって、死別の苦しみに比べれば、なんとかなりそう。
と、思ってしまうのです。
愛する人を失うのが、本当に一番こたえるのです。それだけは、耐えられない。
今日は、私のジェットコースター人生をつぶやいてみました。
最後まで、聞いてくださって、ありがとう。では。
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