近くの小学校から、子供たちの大きな声が聞こえてきます。
運動会が開催されているようです。
小学校時代を思い出しながら、バルコニーから見える運動場を眺めてみます。
元気いっぱいの幸せそうな子供たちの笑い声。
今日は、学校と関係のある、私の人生、3つ目のハードルについて、つぶやいてみます。
飛んだと思ったら、また次のハードルが・・・
人生には、いくつかのハードルがあります。きっと、誰にでも。
私も低いハードル、中くらいのハードル、そして、高いハードルがありました。
いや、たぶん、これからも、まだ、次のハードルが準備されているかも。
(そろそろ、勘弁してくれよなぁ;)
死別と言うハードル(参照:https://griefmementomori.blog/wp-admin/post.php?post=135&action=edit)
)、
経済危機のハードル(参照:https://griefmementomori.blog/wp-admin/post.php?post=310&action=editについては、
すでにプログにアップしましたが、私にとって、死別の次に高かったハードルについて、書いてみます。
それは、「学校に行けない」と言う、ハードルです。
私ではなく、私の息子。。。。
小学校低学年の頃から、学校に行き渋りが見られました。
でも、友達に囲まれ、なんとか通学をしていました。
夫と死別して、半年ほど経ったころからでしょうか。
次男が学校を休む日が多くなっていきました。
死別直後は、「先生、僕、元気やで!」と気丈に通学、そんな姿に安心をしていました。
その頃は、私がヘロヘロで、子供の前でもボロボロ泣いたりしていました。
なので、元気に振舞わないと行けないと頑張ってくれていたのかもしれません。
ちょうど、私が就職も決まり、少しずつ、精神的に安定してきたころ、
息子は学校に行けなくなってしまいました。
そして、6年生が言ったのです。
「生きている意味がわからない」と。
不登校の原因さがしに、必死
父親と死別したことが原因? それとも交友関係? 精神的な問題?
原因探しに必死だった私。
学校に行かない理由を本人に聞いたりもしていました。そんな単純なことではないのに。
行かないのではないのですよね。行けないのです。本人も辛かったと思います。
「何故?」と聞いてしまった、当時の愚かな私。
ただ、学校に行くことがストレスだったのは確か。自己防衛のための手段だったのだと、
今なら、気付くことができるのですが。。。
本を(またまた、登場する本・・・いつも、本が頼りの私)読んだり、セミナーに行ったり。
今と違って、20年前は、全く不登校に関して、理解も情報も少ない社会でした。
セミナーに行っても「親の育て方、母親の愛情不足」と言う講師がいて、私には、逆効果。
受講して話を聞いているうちに、どんどん、テンションが下がり、
気分が悪くなって、セミナー途中に退席したことがありました。
いい加減なセミナー講師は、逆効果、社会悪です。
引っ越しの時に本棚を整理したのですが、不登校関係の本が出るわ、出るわ。。。
思わず、苦笑してしまいました。「どんだけ、悩んどるんや!」と。
一人親となってから、相談するパートナーもなく、頼るのは本だけだったのかも。
「ア~、お父さん(夫)が居てくれたら・・・・・」と何度もこころの中で叫びました。
原因がわかったのは、15年後。
色々あって、・・・・本当に色々あって、中学、高校、専門学校まで、登校、不登校を繰り返し、なんとか卒業。
色々を書くと、たくさんあり過ぎて・・・。一つ一つが、ドラマになる位・・・色々ありました。
自分のことは書けるけれど、自分以外(息子)のことを書くのは、今は、控えようかなと思います。
なので、各種、ドラマの詳細は割愛!
登校問題が終わっても、まだまだ、続くのです。
今度は、社会と言う壁が。
20代半ば、ある出来事がきっかけで、原因がわかりました。
生き辛さをもっていた。。。と言うことが。
感覚過敏、過集中、コミュニケーションに対してのエネルギー。。。などなど。
学校や会社に行くと、その中に溶け込もうとして、相当なエネルギーが必要だったのだと思います。
外から見ると全くわからないのです。そして、友達も多く、女性からも、とってもモテていたのです。
中学校時代は、不思議なモテモテの不登校生でした。
当人もそして、私も、その生き辛さの特性が不登校の原因だと、気付くことができませんでした。
本人は、なんとなく、人とは違うことを意識していたみたいです。
でも、何が違うのか、はっきりとはわからない。なぜなら、基準が自分なのですから。
自分以外の人がどうなっているのかなんて、私だって、わからない。
外から見るとわからない・・・・これって、相当のエネルギーを使っていると思います。
私なら無意識にできることを、彼は頭の中のCPUをフル回転させて生きてきたのだと思います。
だからこそ、気づきにくい。本人が疲弊するほど、CPUを回転させていたのでしょう。
何かおかしい? でも何がおかしいのか? わからないまま10年以上。
長かった・・・・。
その時のことは、忘れません。
私たちがずっと苦しんできた原因は、これだったんだと。
二人で、夜通し窓に向かって腰かけながら、そのことについて話していました。
夜のしじまが終わりを告げ、窓の向こう側が少しずつ白み始めたころ、
私も彼も何も言わず、じっとその景色を見ていると、自然に涙がこぼれているのに気づきました。
原因がわかったことによる、ある種の安堵感とこれからの不安、複雑な涙でした。
反抗期は心理的ストレスを含めて、凄まじかったけれど、(参照:https://griefmementomori.blog/wp-admin/post.php?post=358&action=edit)
彼なりに苦難を乗り越えてきた今、悩んできた分、考え方がとても深く、強くなっているようです。
今では、私の良き相談相手となってくれています。
長い道のりでした。そして、これからも、まだまだ、続く道のりです。
ボチボチと歩いていくでしょう。私も、彼も。
今日は、3つ目の高いハードルについて、つぶやいてみました。
生きていくのは、ホント、色々ありますよね。
大変だけれど、なんとか乗り越えてきた各種のハードル。
今日は、その中の一つについてつぶやいてみました。
最後まで、読んで下さって、ありがとうございました。
では、また。
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