先日、X(Twitter)を眺めていると、宇多田ヒカルさんの言葉が目に入ってきました。
宇多田ヒカルさんも、大切な母を自死で亡くされています。
自分との対話を通して
「X」でつぶやかれてたのですが、彼女も自死遺族会に通っていた時期があったらしい。
母親の自死以降、10年で色々と学ばれたと書かれています。
自死遺族会を始め、精神分析、育児や創作を通して自分と向き合い続けたと。
私も「愛する人との死別」を経験、
苦しくて、もがいて、悩んで、自分の内面と向き合うきっかけとなりました。
特に、自死で遺されたものは、「たられば」の海に溺れます。
「あーしていたら、こーしてれば」・・・いつまでも、いつまでも。
エンドレスに自分を責めます。
自死遺族会のボランティアをしているときも、どれ程の方が、自責の念を語られたことか。
そして、悩み続けたその先に、ぼんやりと答えがでてくることもあります。
答えは、あるのかも知れないし、無いのかも知れないけれど。
理解できないと理解すること
10年あまり、悩んで自己と向き合われた宇多田ヒカルさんは、つぶやかれています。
人が何を感じてどんな思いでしたか、行動の動機やその正当さなんて、本人以外にはわからない。わかりたいと思うのも、わからなくて苦しむのも他者のエゴ。「理解できないと受け入れられない」は勘違い。
「受け入れる」は理解しきれない事象に対してすること。理解できないと理解すること。
「X」 宇多田ヒカルさん より
悩んで苦しんで、自分と向き合われたからこその、宇多田ヒカルさんの答えなのですね。
自死をした本人以外にはわからない・・・
心を病んでしまっているときは、本人にもわからないことがあるかも。
私は、そんな風に思うのです。
そして、
人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない、自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける。
「X」 宇多田ヒカルさん より
場合によっては、生きていた時より、近くに感じるときもあります。
特に愛する人との死別直後は、ずっと、その人のことを考えているのですから。
私の場合は、母の死から50年。
悲しみより、温かい思い出が私を包みます。
悲しい出来事より、母と一緒に暮らした温かい思い出が蘇ってくるのです💓
これも人それぞれだと思いますが。
自分の人生をしっかり生きる
先日、「心のヒダ」について、ブログに書きました。
愛する人との別れで、私の心の中にもたくさんのヒダができました。
こんなに苦しい出来事が起こらなければ、私自身も自己と向き合うことがなかったと思います。
人間とは? 生きるとは? 死ぬとは?
受け入れがたい事象(人生のハードル)が起きるたびに、悩み苦しみ、考えることを続けました。
母は母の人生をしっかりと生きた。そう思うのです。
そして、私は私の人生をしっかりと生きます。
だって、人は自分の人生を生きることしかできないのですから・・・
宇多田ヒカルさんの「X」を読みながら、思ったことをつぶやきました。
今日も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。
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