愛する人との死別直後の悲しみは、とてつもなく、深い。
そして、愛する人が近い将来、この世から、居なくなってしまうと知った時の苦しみも、
また、強烈である。
突然の別れ、闘病の末の別れ。
私は、両方を経験したが、今日は、愛する人の死を目前にしたときの苦しみについて、
つぶやこうかな。。。。。
(ちょっぴり、暗く重たい表現があります・・・。しんどい方、無理して読まないでね❤)
なんだか、様子がおかしい・・・
私が夫の様子がおかしいと気付いたのは、春が近づいてきた3月頃。
どうも、元気がない。そして痩せてきたように、みえた。
桜が咲く頃には、もう、げっそりとしてしまった。その姿はあきらかに病人であった。
あっという間に、病気が進んでしまったのだと思う。
まだ40代の若さ。進行する速度はとても速かったのだろう。
検査と言うことで入院したその日、私は医師から、検査前なのに、癌の可能性を告げられた。
結果がでた日、私は一人で、残酷な告知を受けることになった。たった独りで。(涙;)
これまで家族の中の大事な出来ごとは、全て夫に相談し、夫婦二人で乗り越えてきた。
しかし、告知の日・・・私は一人で人生の最大のピンチに立ち向かうことになった。
残された時間は、たぶん一ヶ月ほどだと医師から聞いた。
今までドラマの中でしか見たことのない世界。これは、ドラマ? 夢? 現実?
20年前には、まだ、本人に告知することは、今のように当たり前ではなかった。
本人に告知をするかどうか、医師と相談をした結果、隠さず伝えることとなった。
わずか、40日間の入院生活。その時、わたしは・・・。
職場の上司に、夫の病状を伝え、私は、長期休暇を取ることにした。
もちろん、毎日、昼間は、私は病院に詰めていたのだが、
ある日、病院から夫の様子が、夜中に不安定になるので、そばに付き添ってもらいたいと連絡。
とても怖かったのだと思う・・・ 一人で夜中に何を思っていたのだろう・・・
家には小学生と中学生の息子。私の母は亡くなり、父はパーキンソン病。
子供達のこと、頼れる人はいなかった。
お昼から夫のそばにいて、夜中は夫の横の簡易ベッドで仮眠、毎朝、始発の電車に乗って帰宅。
子供たちの朝食、弁当を用意し、お昼にまた病院。そんな生活を繰り返すことになった。
子供たちも放課後は、ほぼ毎日、病院にきて、残された4人家族の時間を大切にした。
その頃の私、立っていることさえもできない程の悲しみ、苦しみに襲われていた。
これからどうなるのだろう。日々、痩せていく夫。不安がる息子達。
亡くなったら、その後はどうなるのだろう。不安・不安・不安の日々。
私が倒れるわけにはいかない! その気力だけで、なんとか動いていたような気がする。
立っているだけでも辛かった。。。。倒れてしまうことができたら、どんなにいいか。
今でもその感覚は、鮮明に覚えている。
当時、入院していた病院に、緩和ケア病棟やホスピスはなかったのだが、
看護師さん達は、私達家族に、とても、やさしく寄り添ってくださった。
家族4人が気兼ねなく過ごせるように、二人部屋を個室として使わせて頂いた。
病室で泣くことはできない。夫をこれ以上、不安にさせていはいけない。なるべく笑顔でいよう。
我慢できないときは、病室を出て、エレベータ前の小さなスペースに腰をかけ、
一生懸命、悲しみに耐えていた。
そんなとき、通り掛かったある看護師さんがわたしに、「大丈夫?」と声をかけてくださった。
その言葉が、とても嬉しかった。。。。。
誰かに思いっきり、抱きしめてもらいたかった。「大丈夫よ」と。
そうでないと倒れてしまいそうな過酷な日々の連続だったから。
私がグリーフケアを勉強したいと思ったのは、その看護師さんの一言がきっかけになったのかも。
そして、兄弟、親戚が夫婦揃ってお見舞いに来てくれた時、これも、とてもきつかった。
私はこれから、独りになる・・・・そんな、近い将来の現実をつきつけられているように思った。
深い孤独感である。
私達、癌患者・家族の前に、大きな壁が立ちはだかり、
平和で幸せな世間から、遮断されたような感覚であった。
予期悲嘆
悲嘆は、死が訪れる前にも、存在する。
グリーフケアを勉強した時に、「予期悲嘆」という概念を初めて知った。
実際に私が経験した強烈な悲しみと苦しみ。
あぁ、あれが予期悲嘆だったんだな。。。。
経験をしていると理論がすーっと私の中に入ってくる。
あのとてつもなくしんどかった日々。
あの経験が、患者に寄り添う家族を支えたいとグリーフケアの道に誘ってくれたのかも。
今もどこかで、「あの日のわたし」が存在している。
そっと、抱きしめていあげたいな。。。。大丈夫よって。
今日は、私の経験した予期悲嘆について、つぶやいてみました。では。
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