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☆理解できなくても、受け入れられることもある

グリーフケア

先日、X(Twitter)を眺めていると、宇多田ヒカルさんの言葉が目に入ってきました。

宇多田ヒカルさんも、大切な母を自死で亡くされています。

自分との対話を通して

「X」でつぶやかれてたのですが、彼女も自死遺族会に通っていた時期があったらしい。

母親の自死以降、10年で色々と学ばれたと書かれています。

自死遺族会を始め、精神分析、育児や創作を通して自分と向き合い続けたと。

私も「愛する人との死別」を経験、

苦しくて、もがいて、悩んで、自分の内面と向き合うきっかけとなりました。

特に、自死で遺されたものは、「たられば」の海に溺れます。

「あーしていたら、こーしてれば」・・・いつまでも、いつまでも。

エンドレスに自分を責めます。

自死遺族会のボランティアをしているときも、どれ程の方が、自責の念を語られたことか。

そして、悩み続けたその先に、ぼんやりと答えがでてくることもあります。

答えは、あるのかも知れないし、無いのかも知れないけれど。

理解できないと理解すること

10年あまり、悩んで自己と向き合われた宇多田ヒカルさんは、つぶやかれています。

人が何を感じてどんな思いでしたか、行動の動機やその正当さなんて、本人以外にはわからない。わかりたいと思うのも、わからなくて苦しむのも他者のエゴ。「理解できないと受け入れられない」は勘違い。

「受け入れる」は理解しきれない事象に対してすること。理解できないと理解すること。

「X」 宇多田ヒカルさん より

悩んで苦しんで、自分と向き合われたからこその、宇多田ヒカルさんの答えなのですね。

自死をした本人以外にはわからない・・・

心を病んでしまっているときは、本人にもわからないことがあるかも。

私は、そんな風に思うのです。

そして、

人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない、自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続ける。

「X」 宇多田ヒカルさん より

場合によっては、生きていた時より、近くに感じるときもあります。

特に愛する人との死別直後は、ずっと、その人のことを考えているのですから。

私の場合は、母の死から50年。

悲しみより、温かい思い出が私を包みます。

悲しい出来事より、母と一緒に暮らした温かい思い出が蘇ってくるのです💓

これも人それぞれだと思いますが。

自分の人生をしっかり生きる

先日、「心のヒダ」について、ブログに書きました。

愛する人との別れで、私の心の中にもたくさんのヒダができました。

こんなに苦しい出来事が起こらなければ、私自身も自己と向き合うことがなかったと思います。

人間とは? 生きるとは? 死ぬとは?

受け入れがたい事象(人生のハードル)が起きるたびに、悩み苦しみ、考えることを続けました。

母は母の人生をしっかりと生きた。そう思うのです。

そして、私は私の人生をしっかりと生きます。

だって、人は自分の人生を生きることしかできないのですから・・・

宇多田ヒカルさんの「X」を読みながら、思ったことをつぶやきました。

今日も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

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