アイキャッチ画像は、9月最初の日の朝日が昇りゆく写真です。
早起きしてベランダに出た時、綺麗だったのでパチリ。
今から、太陽が昇る1日のスタート。
平和な1日になりますように💓 毎日、そう思いながら、朝の空を見上げます。
3つの「死」
とは言え、60代後半に突入した私には、朝陽より、夕陽が似合うのかな。
まもなく沈みます。笑
「死」を3つに分類した哲学者がいます。ご存知でしょうか?
フランスの哲学者ジャンケレヴィッチです。
何度か耳にされたこと、あるかも知れません。
「一人称の死」「二人称の死」「三人称の死」
人称・・・中学時代の英語以来です。
(ア~!懐かしき、三単現。三人称単数現在のs。。覚えていますか? 笑)
では、死の3つの分類って何?
一人称の死=私の死 二人称の死=あなたの死 三人称の死=他人の死
初めて聞いた時は、なぁるほど。わかりやすい!と思ったものです。
そして、それぞれの「死」が、異質なものなのです。
私は、三人称の死・二人称の死を、既に経験しています。
未経験の分野は、「一人称の死」です。
三人称の死
他人の死。
(他人と言っても、関係性によっては、二人称の死になると思うのですが・・・。)
テレビや新聞、今ならSNSの向こうから流れてくる死。
自分にとって、一番遠い「死」
それでも、心が痛むこと、大いにありますよね。
悲惨な事故や災害、その他、理不尽な亡くなり方をされた報道を聞くにあたって、赤の他人であっても、やっぱり、なんとなく、辛く悲しい気持ちになります。
「○○な事件がありました。・・・被害にあわれた方、命に別状はないとのことです」
と報道されれば、「よかった!ほっ!」と思います。
知らない誰か・・・でも、亡くなられなくてよかったと、本能的に思うのかな?
三人称の死・・・悲しい気持ちになったとしても、それでも、私の日常は、普段通りに流れます。
二人称の死
二人称、「あなた」の死。愛する人の死。
親子、連れ合い、兄弟姉妹、恋人、親友・・・
私も最愛の人の死を経験しました。これは、かなりキツイ!
何度も書いてきましたが、愛する人との別れは、それがどんな形であっても悲しい、苦しいものです。
まさに、自分の身を裂かれる、こころが裂かれる。。。
本当に辛い経験です。
愛する人が亡くなったその日から、私の日常は、突然、失われてしまいました。
その日を境に、日常から色がなくなってしまいました。
人称別に死があることを、私が初めて知ったのは、
柳田邦男氏の手記「犠牲 わが息子・脳死の11日」を読んだ時です。
柳田邦男氏の二男は25歳で自死されています。
悲しみの海の中で、生死をみつめる
脳死状態になった二男と過ごした11日間。
柳田氏は、二男に語りかけ、とても深く濃密な時を過ごされました。
人間の生と死の区切りについても、大いに考えさせられます。
脳死の問題・・・深くそして、重い問題です。
愛する人との別れ、二人称の死を経験した柳田氏。
文庫版へのあとがきの中で、次のように書かれています。
人は悲しみの海のなかから、真実の生を掬いとるのだ。私自身、息子を弔った悲しみは、むしろ時が経つにつれて深まるばかりだし、ひとりでいるとき、何かのきっかけで涙があふれてきて止まらなくなることがしばしばある。不思議なことに悲しみの深まりと比例するかのように魂の実在、魂が私の心の中にしっかりと生きていると言うことを、ますます実感するようになっている。
「犠牲 わが息子・脳死の11日」 文庫版へのあとがきより
柳田氏は、「二人称の死」の重要性について、この本の中で語られています。
「二人称の死」は、生きること、死ぬことを、真正面から問いかけてくるのです。
さて、私の死(一人称の死)
おちゃらけた日々を過ごしている、そして、それをブログに綴っているこんな私ですが、
夕陽を眺めながら、自分の死を考えることがあります。
でも、これは、永遠にわからない。
死を経験したときに、私がどう思うのか。。。そして思う事なんて、できないのか。。。
意識はあるのか、ないのか。
だからこそ、辛く苦しい経験をした「二人称の死」が私にとっても重要になってくるのかな。
遺された私は、どう、生きるのか。どんな風に生を全うするのか・・・
愛する人の死が、私に語りかけるのです。
今日は、9月スタートの朝焼けを見ながら、思った「死」について呟いてみました。
最後までお会付き合い頂いて有難うございました。では、また。
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