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☆「孤独を生きる」について考えてみた

人生

まだ、止めずに取っている紙媒体の新聞。

紙面の下には、本の宣伝がズラリ。

紙媒体購読者を意識してか、シニア向けの本が多いような気がします。

それを眺めていると、「孤独」の文字が目につきます。

「孤独」と「孤独感」

孤独の意味を調べると、「ひとりぼっちであること (goo辞書より)」となっています。

少々、理屈っぽくなりますが、ここに「感」がつくと、心模様がプラスされるのかな。

goo辞書の「孤独」は物理的視点?

で、「感」がつくと、自分がそう感じているということなのかな。

例えば・・・夫婦が一緒に暮らしていて、ひとりぼっちではない時にも、「孤独感」を味わっている方がいるかも。

物理的に一人ではないだけに、(心が離れていると)余計に寂しく思うことがあるのかも知れません。

私のように夫が既に亡くなっていると、ひとりぼっち。

(息子二人がいますが、夫婦の感覚ではないので除外(笑))

夫が亡くなって、今も「孤独」なのかも知れませんが、意外と「孤独」を楽しんでいる所があります。

気持ちの上で「ひとりぼっち」と感じることが少なくなりました。

究極?の孤独を感じたとき

なんだか、回りくどくなってきましたが、こんな私も「究極の孤独」を感じたことがあります。

究極の「孤独」感・・・それは、とっても恐ろしいモノでした。

以前にもブログに書きましたが、冷たい底なしの海の中をどこまでも沈んでいく・・・または、漆黒の宇宙をたった一人で浮遊する感覚。

とにかく「怖かった」・・・その感覚は、忘れることができません。

こんな状態を「絶望」というのかなと思ったり。

もちろん、感覚は個別的なもの。

夫との死別時に、「私は、そう感じた」のです。

そもそも、結婚する前は独身。

パートナーの存在がない時期には、そこまで「孤独」を思ったことがありませんでした。

若い!ということもあり、まわりに友人もたくさんいました。

「孤独」に気づいていなかったとも言えます。

「一人」が「二人」になると言う感覚がなかったのです。

夫婦になると、私の中で、「二人で一人」という錯覚に陥りました。

そして、死別から24年経過した今、既に、その「怖い」感覚は、なくなりました。

その時、経験して、体感して・・・そして、最終的に、気づいたのです。

「人は、どこまでも一人だ」と言うこと。

一人で生まれて、一人で死んでいく。 

そんな当たり前のことが、解ったのです。

孤独を生ききる

死別直後に買ったのでしょうか。

本棚に「孤独を生ききる 瀬戸内寂聴」という本があります。

色々な側面から「孤独」について書かれています。

造物主は、王様にもあらゆる人々にも平等に孤独の辛さだけは与えています。…略

どうせ手の切れない腐れ縁なら、私たちはそれから逃げまどう策ばかり探さないで、いっそ孤独を皮膚の上にもう一つの皮膚として、肌身にまとい、死ぬ日までそれと共棲して、生ききろうという方法を考えたらどうでしょう。…略

愛があっても孤独、群れていても孤独、若くても老いていても孤独なのです。

孤独は普遍性を持ちながら、あくまで個性的なものです。ひとり、ひとりが自分の孤独に対決し、それを凝視して、その性質を掴み、それを飼いならす方法を発見していくしかありません。

~ 孤独を生ききる 瀬戸内寂聴 より ~

この文章が、死別直後の私にどこまで響いたかは、既に覚えていません。

ですが、時が流れて、今、読むと納得する部分が多いことに気づきました。

そして、シニアになった今、・・・

これからも、意に反して、まさかの別れや出来事が繰り返されることが予想されます。

それでも、「孤独と共存していく自分」を見失わないように、生きていこうかなと思います。

「孤独」は「自由」と同義だと思いませんか?…そんな風に、寂聴さんは書いています。

これからも、アーモンドの人生の旅は、続きます。

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