まだ、止めずに取っている紙媒体の新聞。
紙面の下には、本の宣伝がズラリ。
紙媒体購読者を意識してか、シニア向けの本が多いような気がします。
それを眺めていると、「孤独」の文字が目につきます。
「孤独」と「孤独感」
孤独の意味を調べると、「ひとりぼっちであること (goo辞書より)」となっています。
少々、理屈っぽくなりますが、ここに「感」がつくと、心模様がプラスされるのかな。
goo辞書の「孤独」は物理的視点?
で、「感」がつくと、自分がそう感じているということなのかな。
例えば・・・夫婦が一緒に暮らしていて、ひとりぼっちではない時にも、「孤独感」を味わっている方がいるかも。
物理的に一人ではないだけに、(心が離れていると)余計に寂しく思うことがあるのかも知れません。
私のように夫が既に亡くなっていると、ひとりぼっち。
(息子二人がいますが、夫婦の感覚ではないので除外(笑))
夫が亡くなって、今も「孤独」なのかも知れませんが、意外と「孤独」を楽しんでいる所があります。
気持ちの上で「ひとりぼっち」と感じることが少なくなりました。
究極?の孤独を感じたとき
なんだか、回りくどくなってきましたが、こんな私も「究極の孤独」を感じたことがあります。
究極の「孤独」感・・・それは、とっても恐ろしいモノでした。
以前にもブログに書きましたが、冷たい底なしの海の中をどこまでも沈んでいく・・・または、漆黒の宇宙をたった一人で浮遊する感覚。
とにかく「怖かった」・・・その感覚は、忘れることができません。
こんな状態を「絶望」というのかなと思ったり。
もちろん、感覚は個別的なもの。
夫との死別時に、「私は、そう感じた」のです。
そもそも、結婚する前は独身。
パートナーの存在がない時期には、そこまで「孤独」を思ったことがありませんでした。
若い!ということもあり、まわりに友人もたくさんいました。
「孤独」に気づいていなかったとも言えます。
「一人」が「二人」になると言う感覚がなかったのです。
夫婦になると、私の中で、「二人で一人」という錯覚に陥りました。
そして、死別から24年経過した今、既に、その「怖い」感覚は、なくなりました。
その時、経験して、体感して・・・そして、最終的に、気づいたのです。
「人は、どこまでも一人だ」と言うこと。
一人で生まれて、一人で死んでいく。
そんな当たり前のことが、解ったのです。
孤独を生ききる
死別直後に買ったのでしょうか。
本棚に「孤独を生ききる 瀬戸内寂聴」という本があります。
色々な側面から「孤独」について書かれています。
造物主は、王様にもあらゆる人々にも平等に孤独の辛さだけは与えています。…略
どうせ手の切れない腐れ縁なら、私たちはそれから逃げまどう策ばかり探さないで、いっそ孤独を皮膚の上にもう一つの皮膚として、肌身にまとい、死ぬ日までそれと共棲して、生ききろうという方法を考えたらどうでしょう。…略
愛があっても孤独、群れていても孤独、若くても老いていても孤独なのです。
孤独は普遍性を持ちながら、あくまで個性的なものです。ひとり、ひとりが自分の孤独に対決し、それを凝視して、その性質を掴み、それを飼いならす方法を発見していくしかありません。
~ 孤独を生ききる 瀬戸内寂聴 より ~
この文章が、死別直後の私にどこまで響いたかは、既に覚えていません。
ですが、時が流れて、今、読むと納得する部分が多いことに気づきました。
そして、シニアになった今、・・・
これからも、意に反して、まさかの別れや出来事が繰り返されることが予想されます。
それでも、「孤独と共存していく自分」を見失わないように、生きていこうかなと思います。
「孤独」は「自由」と同義だと思いませんか?…そんな風に、寂聴さんは書いています。
これからも、アーモンドの人生の旅は、続きます。
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