18年前の2005年4月25日、JR福知山線で、脱線事故が起きました。
JR事故のあった地に誕生したグリーフケア研究所
当時、次々と入ってくる事故の情報に驚きました。
福知山線は、日常には使用していないのですが、事故が起きた地域は、兵庫県で育った私には馴染みのある町でした。
事故から4年。この事故がきっかけで、西日本旅客鉄道株式会社とJR西日本あんしん社会財団の寄付により、社会に役立つようにと設立されたのが、日本グリーフケア研究所です。(上智大学グリーフケア研究所の前身)
グリーフケアを実践できる、専門的な知識・援助技術を備えた人材を育成することを目的に発足されました。
途中で上智大学に移管されましたが、私もこのグリーフケア研究所で、悲嘆とそのケアについて学びました。
設立された初年度には、公開講座が開かれ、1年間、毎回、仕事帰りに駆けつけました。
当初は、塚口(尼崎市)まで通っていました。
最初に事故現場を通った時、事故のあったマンションと線路が、あまりにも接近していることに驚き、そして、側を通過したときは、胸が締め付けられる思いがしました。
こんなに近くを電車が走っていたのだと。。。。
私の転機となった日
毎回、通学でその現場を通る時は、心の中で手を合わせていました。
1年間に渡って公開された講座を全て受講、2年目には、正式に悲嘆の勉強を希望し、グリーフケア研究所を受験、受講生となりました。
研究所の所属大学の廃校が決定、その後、上智大学に移管され、途中からは、学びの場が梅田に変わりました。
塚口(尼崎)で学んだ日々を大変、懐かしく思い出すとともに、私の中では忘れられない大切な地となっています。
運転士を含め107名の大切な命が失われました。不本意な別れを経験し、愛する人を失った遺族の悲嘆は、今でも消えることはないでしょう。
そして、18年経った今でも後遺症があり、苦しんでおられる方が、いらっしゃるのです。
4月25日が来るたびに、あの日のことを思い出します。
18年前の、衝撃的な現場を報じるニュース、救助にあたる近隣の人々の様子。
そして、車窓から見えた畑に浮かび上がった「命」の文字を見ながら、研究所に通学したこと。
事故現場近くに住んでいる方が、大切な命を想い、ご自身の畑に花文字を作られていました。私もその文字を眺めながら、通学していました。
直接関係していなくても、誰にとっても、とても衝撃的な事故だったのです。
尼崎は、私のグリーフの原点 不思議な縁のある地
事故のあった尼崎で、グリーフケアの学びをスタートしたのですが、この地は、私のグリーフの原点でもあるのです。
48年前、尼崎市の病院に救急搬送された私の母は、この地で亡くなりました。
偶然ですが、私にとっても、尼崎の地は、悲嘆と繋がりの深い土地なのです。
母との別れを経験した街、グリーフケアの勉強をスタートした街、尼崎。
不思議な縁のある地となりました。
今年も、4月25日になりました。
107名の方の命と、その遺族、そして、事故にあわれた方、皆さんのことを思いながら、今日も、心の中で手を合わせます。
18年前の4月25日のことを思い出しながら、色々とつぶやきました。
今日も最後まで読んで頂き、有難うございました。では、また。
コメントなし