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☆愛する人を自死で亡くしたら・・・

グリーフケア
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台風が近づいている今日、

窓から見える空は、どんよりとした雲に覆われています。

「そよ風だより」とは言い難い空を見ながら、パソコンに向かっています。

私は、愛する人との「突然の別れ」と「癌と言う病気での別れ」、両方を経験しました。

今日は、自死、「語れない死」について、つぶやいてみようと思います。

「語れない死」について

「語れない」、「語らない」・・・そんな死別があります。

自死遺族会でボランティアをしていたのですが、参加者の話を聴いていると、

遺族の持つ様々な背景から、複雑な悲嘆が見えてきました。

以前、グリーフケアの勉強をしていた時、友人とまとめてみたことがあります。

今日は、そのあたりを少しふり返ってみようと思います。

そもそも、死そのものを積極的に語ることは、まだまだ、少ないですよね。

なかでも、自死に関しては、なかなか、話題にすることはないと思います。

なぜなのでしょうか?

自死遺族が抱える複雑な苦悩について

自死遺族会を通して、遺族の語りからみえてきた苦悩をまとめました。

1.   突然の衝撃

2.   悲惨な現場と遭遇した苦悩

3. 自死に至るまでの複雑な背景とその苦悩

4. 自死に対する偏見・無理解からくる苦悩(世間の偏見・無理解、自身の中にある偏見)

5.   強い後悔・自責の念に苛まれる苦悩

6.   家族、親戚との関係性から生じる苦悩

7. その他 (経済問題・賠償関連・訴訟問題・警察等関係機関の対応等)

それぞれ個人差ありなので、あてはまらなかったり、他にもあったりですが、

以上が、自死遺族会の語りから、みえてきた複雑な苦悩です。

「語れない死」を「語れる場」

以前、私がボランティアをしていた自死遺族会は、参加者が全員、自死遺族です。

参加した方々から、次のような声を聴くことができました。

「ここに参加して、思いっきり息子のことが話せました。帰宅後、久しぶりに朝までぐっすり寝ることができました。」

「普段は、接客業なので笑顔をかかすことができません。思いっきり泣けて、すっきりとしました。」

「たら、ればの海(自責、後悔の念)に溺れそうでした。みなさんも同じような気持ちなんですね」

   (たら、ればとは → ○○していたら・・・  ○○すれば・・・ )

などなど・・・・。

責められる事なんてないはずなのに、何故か、口をふさいでしまう遺族。

確かに内容は重いし、理解されることは難しいかも。

でも、やっぱり、語ることによって、少しはモヤモヤが解消されることがあり、

気持ちが癒されるのではないかなぁと思います。

語る前と語った後の変化は?

 ・語れないモヤモヤ ➡ ・語ることによるカタルシス

 ・「一人ぼっち」「孤立」 ➡「一人ぼっち」でない実感

 ・大切な人の存在を消してしまう罪悪感 ➡ ・大切な人が生きていた証

 大切な人の人生、自分の人生が肯定できない ➡ ・大切な人の人生、自分の人生の肯定

 ・重い荷物を一人で背負う感覚  重い荷物を少しの間、置いておける感覚

 あるがままの自分を受け入れてもらえない苦悩 ➡ ・あるがままの自分を受け入れてくれる心地よさ

 ・大切な人の存在を隠している自責の念 ➡大切な人が自分の傍に今も存在している実感

 ・泣けない(感情の表出ができない)・思いっきり泣くことができる(感情の表出)

 ・心身の不調 ➡ ・心身の不調がやわらぐ

「語れない死」から、「語れる死」へ

自死遺族には複合的な苦悩があります。

自死遺族会に参加して、多くの遺族が大切な人の死を「語れない状況」にあることが見えてきました。

遺族が安心して語れる場、語れる相手の必要性をあらためて実感しています。

そして、自死に対しての理解を社会に広めることが必要だと。

私には、個人の問題と言うより、そこに、社会の病理が隠れているようでなりません。

自死は、特別な人に起きた特殊な問題ではなく、誰の身にも起きうる社会全体が抱える問題として、

共に考え、共に背負っていける社会になればなぁと願っています。

   

今日は、「語れない死」について、つぶやいてみました。では。

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