ケアの勉強をしていた時、たくさんの本に出会いました。
私は、夫を癌で看取った時から、終末期医療に関心がありました。
その中の1冊、「死にゆく人と共にあること・・・マインドフルネスによる終末期ケア」について、
折をみて、ブログにアップしていきたいと思います。
色々なところに気づきがあります。
『死にゆく人と共にあること』との出会い
この本と出会ったのは、私がホスピスや病院でボランティアをしていた時です。
ちょうど、ティクナットハン師の著書や「マインドフルネス」にも出会った頃と重なります。
ブログで何度かつぶやきましたが、私は、禅に惹かれているのです。
全くの理屈抜きです。禅の考え方がストーンと腑に落ちるのです。
米国でホスピスケアをする人は、キリスト教徒と思いがちですが、
この本を書かれた著者、ジョアン ハリファックス師は、米国の禅仏教師です。
禅に惹かれている私にとって、親しみのもてる内容で、印象深い本となりました。
死を目前にした人は、何を思うのか。
そして、死後の世界について。
どんなに考えても答えは出ないはずですが・・・。
やがて、私も経験する「死」
とにかく、少しでも、答えに近づきたかったのでした。
この本は、ホスピスで働く人、ボランティアをする人、傾聴ケアをする人だけに関わらず、
愛する人が死を目前にして、苦しんでいる時、傍らに寄り添う家族や友人にとっても、
いえ、必ず「そのとき」を迎える人(=要するに全員やね!)にも、気づきのある内容の本だと思います。
生を受ければ、必ず死が存在する
夫の病名と余命が告知されたとき、悲しみ、苦しみと共に私を襲ったものがあります。
それは、「人間って、必ず死ぬんだ」と言うあたりまえのこと。
辛いとか苦しいとかいう感情だけではなく、当たり前の事実を再認識したのです。
母と早期に死別した私でしたが、その時とは、また、違ったものでした。
死別体験した時期が10代と40代。人生を重ねてきて、中年になって、改めて感じたのかも知れません。
母の死は突然だったけれど、夫の死は予期されていたから。。。
死を待つ時間の違いが、あるかも知れません。
ホントのところは、何故、そう思ったのかは、明確にはわかりません・・・。
忘れていたわけではないけれど、深くは考えなかった「死」
夫が入院している間、私の目の前に突き付けられたのでした。
死の否認
本の中にも書かれていますが、現在の私たちの文化には、死を否認する傾向にあります。
いざ自分や愛する人が病に倒れ、死を目の前にしたとき、慌てふためいて、身がすくんでしまうのです。
とは、言っても、普段から、死の準備をする人は、あまり、居ないと思います。
私も一緒でした。
だから、愛する人の死と直面すると、慌てふためいて、ドギマギ、ドギマギ・・・・
看病の傍ら、なんとも安定感のない、不安定な状況で、彼の横に座っていました。
その時の私。。。いえ、。。。
今でも、自分の死や、愛する人の死を目の前にすると、きっと、やっぱり、ドギマギドギマギするに違いありません。
それが、一般的な人間なのだと思います。
頭で理解していても、やっぱり、怖いものなのです。
いつか必ず来る「その時」のために
この本は、「マインドフルネスの実践によって、こころが育まれる」とあります。
副題は、「マインドフルネスによる終末期ケア」
開放や受容、その実践から育まれた信頼と忍耐は、私たちの支えとなってくれるとのこと。
マインドフルネスによって、行われる「こころの訓練」かぁ・・・
シニアになって思うのは、いつか必ず訪れる「そのとき」のこと。
この本を再び、手に取った今、そろそろ、こころの準備も必要かなと、思っています。
(ホントは、準備するのに年齢は関係ないけれど・・・)
夫の死をみつめたときの私は、ホントに余裕がなかったなぁ・・・。
悲しみの渦に巻き込まれながら、それでも、残された子供たちと自分の生活を考えて、生きていかなければならなかった。
↑と、言い訳をしています。
今なら、時間にも、心にも、ちょっぴり余裕があります。
マインドフルネス・・・・再び、続けようかな・・・。
私の「そのとき」のために。
今日は、ジョアン・ハリファックス師による「死にゆく人と共にあること」を再び手にしたことについて、つぶやきました。深い本なので、これからも折をみて、つぶやいてみようかと思います。
今日も最後まで読んで下さって有難うございました。
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