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阪神淡路大震災から今日で28年目になりました。
私が地震をおこしたわけではないのですが、何故か心に痛みを感じます。
毎年、1月17日、神戸を思うとき、私の心は、ちょっぴり、罪悪感でチクチクします。
今日は、そんな自分の心の中を覗きながら、つぶやいてみます。
1995年1月17日早朝のこと
1995年1月17日早朝、大きな揺れで目が覚めました。
大阪の我が家も、かなり揺れ、子供たちと一緒に寝ていた私は、思わず子供たちに覆いかぶさりました。
こんな揺れは、初めて! 何がおこったのかな?
本棚の本が落ちてきて、ドアをふさぎ、部屋を出るにも時間がかかりました。
我が家の被害と言えば、玄関のガラスが割れてしまったこと。
それでも、大きな影響があったわけではないので、仕事に向かおうとしていた私。
結局、その日は、仕事は、休みとなりました。
震源は? 後から、ニュースで知ったのですが、震源地は神戸。
まさかの、私が育った、大好きな神戸だったとは・・・・
テレビの向こうに映る見覚えのある景色、大きな被害・・・。
倒れてしまっている高速道路橋桁。三宮近くの倒壊したビル。夜にテレビで見た長田の火災。
学生時代、OL時代に出会った多くの友達は、神戸に住んでいました。
従妹も西宮夙川に住んでいて、後で連絡をとると、アップライトピアノが倒れ、家は半壊状態に。
実家も神戸にありましたが、一番西の端だったため、食器が散乱した以外は、ほとんど被害はなかったようです。
川をはさんだ、大阪と神戸
本来なら、すぐに駆けつけて、何か神戸のためにできないかと思う所ですが、
何もできないまま、ずっとテレビの向こうの神戸の震災被害の様子に、ため息をつくばかりでした。
淀川をはさんで、あちらとこちら。
神戸と大阪の状況が全く違ったことは、後から色々と話題になりました。
平和な日常が一変した神戸と、日常が継続している大阪。
大きな境界線が出来てしまったような気がしました。
それでも、バイクに色々物資を積み込んで、避難所に届けた方達がいらっしゃったようです。
私は、テレビで見ているだけ。少しでも被害が大きくならないようにと心の中で祈るだけ。
心の中が、チクチクしていました。
できることと言えば、少しばかりのお金を寄付することぐらい。
それから、どれ程の時間が経ったのか記憶が曖昧ですが、初めて神戸に行ったとき、
電車から見える景色を直視することができず、辛く感じました。
私が育った神戸に何もできなかったことに、今でも、心がチクッとするのです。
泣きながらニュースを伝えたアナウンサー
そして、とても印象深く残っていることが、ふたつ、あります。
一つ目は、震災の様子を伝えるニュースを読むアナウンサーが、放映中に号泣されたシーン。
「私は、毎日犠牲者の方の人数を発表していますが、お亡くなりになった方々、お一人おひとりの人生があったはずです」
泣きながら伝えられたニュース。アナウンサーの涙声の向こうに、震災の悲惨さが伝わりました。
報道担当のアナウンサーが感情をむき出しにすることは、ある意味、NGなのかも知れません。
ですが、28年経っても、そのアナウンサーの声を思い出すのです。
神戸の震災の記憶が鮮明に伝わり、今でも、あの場面を、忘れることができません。
犠牲者の数を一言で言ってしまうのは、申し訳ないと言う、アナウンサーの気持ち。
一人一人に大事な人生があったのだと、私達に伝えてくれているのです。
今でも思い出します。大志君のこと。
二つ目は、新聞に掲載された、1歳半の息子さんを震災で亡くされたお母さまの投稿。
「1歳半の我が子を忘れないで、この世に存在したことをほんの少しでも思って欲しい」との内容でした。
犠牲者の一人一人に、人生があり、愛する人と死別された悲しみがあると、あらためて思った手記でした。
その子供さんの名前は、「上仲大志」君。
28年経った今でも、お母さまの手記に心を打たれ、私は大志君のことを1月17日に思い出すのです。
悲しみの裏に、お母さまの大きな愛情があることが、伝わってきました。
繰り返しになりますが、犠牲者の数だけ人生があり、愛する人を亡くされた方の悲しみも存在するのですね。
震災では、重複した喪失をもらたらすと言われています。
住み慣れた我が家、街並み、そして愛する人との別れ。
そんな、大きな災害が神戸にあった、1月17日。
大阪に住んでいた、私のこころは、何故かチクッとするのです。
何もできなかった自分に。
28年目になる、阪神淡路大震災のおきた今日、1月17日。
犠牲者の方の、ご冥福をあらためてお祈りいたします。
今日も最後までお付き合い下さって、ありがとうございました。
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